ヨガにおける人生の目的

断食は5日目で今日が最終日、明日から回復食なのだけれど私には回復食こそが難しい。断食は食べなければいいだけなので簡単だし、3日目を過ぎるとほとんどお腹もすかないのではっきりいって慣れてしまえばどうということは無いのだけれど、回復食に入ると途端に眠っていた空腹感が刺激されてしまうので多少の注意が必要になる。

断食中の練習や瞑想があまりにも気持ちが良くてついその状態 (つまり身体が柔軟で普段苦手なバックベンドに深く入れたり練習中の研ぎすまされた集中力) に執着してしまう。回復食が終わり日常食に戻ってレストランでつい食べ過ぎてしまったり甘いものの誘惑に引きずられていくと、数日後の練習にとても影響する。

そうなってから「数日前にはあんなに気持ちよく深く練習に入れたのに・・」と既に過去である何日か前の自分の状態と今を比べて「嗚呼・・・」となることがよくある(無いほうがいいのだけれど)。身体の状態は良いも悪いも一時的なものなのだけれどマットに立ち、練習を始めて最初の10分程はまだ集中力もそこそこで、呼吸にもさほど深く入れていない間はマインドが忙しく動いてしまい「あの日の練習をもう一度・・」みたいな気分になってしまう。

人間として肉体を持っている限り、コンディションは流動的に変化し続けていくので身体の軽い日も重い日も柔らかい日も硬い日も当然ある訳だけれど、ヨガの練習を通して冴えない自分の状態を真正面から見つめる作業というのは時にキツいし、練習も日によってはネガティブな感情が溢れ出て落ち込んだりもするだろう。それでも2時間程しっかりとマットの上で身体を使って自分自身と向き合い、繋がる練習をすると極上のシャヴァアサナによって全ての否定的な感情は洗い流され、その後に瞑想をすることで深く満たされマインドは安定していく。

他人に対して否定的なことを言ったり、意見を押しつける人の多くは自分自身と向き合う(本当の自分を知る)作業、あるいは自己をみつめるサダナ(精神的な修練)を苦手とする人が多い気がする。人の価値基準なんて本当にそれぞれなので放っておけば良いものを、わざわざ呼び止め意見をするという行為の目的は、他者を否定することによって自分を肯定したいという欲求であることが多い。自分自身と向き合わず他者の揚げ足を取ったり間違いを指摘するのは自分を傷つけないし、自身に落胆することも無く楽なのだ。

現在の多情報で何もかもが素早く流れていく世の中では、誰もが様々なツールを通じ誰かと繋がろうと必死だけれど、他者と繋がるよりもまずは自己を知り、自己と繋がっていくことが大事に思える。まずは自己を知り(どういった感情や欲求を持っているか、そしてそれらは何故あるのか)、Citta(心)をコントロール(統制)していくことで様々なことから解放され、ヨガの本来の目的であるモークシャ(解脱/真の解放)へと繋がっていく。社会的な役割を行う場所(仕事場など)でのことはさておき、ヨギとしての学びを深めるシーンにおいては行いや意識の持ち方はGURU(生徒の闇を取り除き光へと導く精神的な指導者)によってもたらされるべきであり、メディアなどの商業的なところからやってくる情報に影響されすぎるとマインドが忙しくなり、正しい行いが出来なくなってしまう。

モークシャを目指す我々ヨギは日々、ABHYASA(修練)を続け、BAIRAGYA(離欲)へと近づく精神的なプラクティスをするべきであり、アサナや呼吸法、瞑想は人生の目的に向かうプロセスである。

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